デザイン後進国日本
日本ってとてもデザイン後進国だと思うんです。
街で見かけるの「いい加減な作りの素人っぽい看板」や「景観を無視した建物」「ボタンが多すぎて操作が難しいリモコン」などなど・・・。
この原因の一旦は「デザイン」という言葉が誤解されているからだと思うんです。
「デザイン=意匠」では無い
先ず日本では「デザイン」という言葉をかなり偏った解釈で誤解されてる気がするんです。
「デザイン」という言葉は日本では「意匠」と訳されるが、これって合ってるんですかね?
wikipediaによると「デザイン」とは・・・
デザイン(英語: design)とは、オブジェクト、システム、さらに測定可能な人間とのインタラクション(建築設計図、 エンジニアリング図面、ビジネスプロセス、回路図、縫製パターンなど)を構築するための計画またはコンベンションを作成する行為。
とある。
少々難解だが、要は「人(特定の誰か)に作用する何かを計画して作る」という事を回りくどく言ってるのかな?と。
もっと簡単に言えば「デザイン」とは誰か(特定の人)に意図通りの行動を促すための「設計」または「計画」と言えるのではないか?
となると、日本語で広く認知される「デザイン=意匠」とうのは、本来の「デザイン」が意味する所のほんの一部分を抜き出して解釈されているという事になる。
デザインの核とは?
つまり「デザイン」とは「フォルムや装飾、配色」の事だけではなく、その前提になる「目的」や「意図」が先ず最初にあるべきという事なのだ。
wikipediaにもあるが、日本的デザインの意味するところは英語の”style(スタイル)”に相当するモノだろう。
webデザインにおいて「cssでstyleを当てる」なんて言うが、まさに「目に見える体裁」の事がスタイルの意味するところだ。
しかし実際には「cssでstyleを当てる」のは最終的なスタイリングであってwebデザインの一部に過ぎない。
webデザインの過程としてある「誰が・何のため・どの様に」使われるのか?などの基本的なコンセプト定義、全体のサイトマップ設計、htmlのみで動くスケルトンやモックアップも構築、これら全てが実はデザインと言える。
イスをデザインで考えると「ゆっくり寛いで欲しい」あるいは「ゆっくりして欲しくない・・・」などの目的(コンセプト)があり、これを意図した形状、色、材質が検討される筈だ。
パンフレットであれば「高収入の独身男性に見て欲しい」、「子持ちの主婦見て欲しい」などの標的となるターゲットがあり、彼らが好みそうな配色、レイアウトを取り入れるべきだろう。
この「誰かに行動を促す意図」こそが本質的なデザインの核となる部分なのだ。
何らかのデザインを生み出すということは、ある問題解決のために「誰かに行動を促す意図」したものをアウトプットするという事であり、よって「デザイナー」はこれらを全て把握した上で目的にそったデザインを目指さなければならない。
しかしこの「デザインの核」が何故かごっそり抜け落ちてしまうケースが少なからずある、というのが「デザイン後進国日本」と感じてしまう所以なのだ。
間違った主従関係
ではなぜ肝心な部分が抜け落ちるのか?
これは世間の「デザイン=意匠」の誤解と同様、日本の企業文化(上官の命令は絶対な軍国主義的な)が生み出す「クライアントと制作側の主従関係」も大きく影響している様に思う。
本来何らかのクリエイティブを委託するクライアントと受託する制作プロダクションとは対等な関係でなければ健全であるとは言えない。
これは「医者と患者の関係」と似ていると考えられる。患者はクライアントであり、医者は制作プロダクションとなる。
医療の現場で医者が患者の言いなりになるという事はあり得ないだろう。しかしバカげた事にクリエイティブの現場ではこれが普通にまかり通ってしまうのである。
これは患者が「気持ちよくなる薬(麻薬)を欲しい」といって「好きなだけどうぞ」と麻薬を渡すようなものである。
プロジェクトの当初は然るべき目的やコンセプトが双方で話し合われていたとしても、突然「担当者が変わった」、「社長の好みと合わない」などの見当違いな理由で全てが白紙となってしまうケースがこれに当たる。
本来であれば、例えそうなったとしても制作側は「コンセプトから外れては意味がない」と主張すべきなのだが、クライアントとの間違った主従関係から暗黙の了解として見当違いな意見に従ってしまうのである。
いわゆる「空気を読む」とか「忖度」といった空気がクリエイティブをおかしなモノにしてしまうのである。
デザインに「おもてなし」は不要
また日本特有の考えを表す「お客様は神様」、「おもてなし」などの価値観もクライアントと制作側の関係をこじらす一因であると考えられる。
クライアント側が「お金を払ってるんだがら」や「客を気分良くさせるのが当たり前」の様な態度である場合もあり、こういったケースでは100%アウトプットが上手く行くことは考えられない。
またボタンが多すぎて逆に分かりづらいリモコンや多機能(使わない機能が多い)で分かりづらい家電製品なども、どうしたらああなるのか不思議だ?
本来使いやすくブラッシュアップされてシンプル化されて行くのがデザインの筈であるが、「お客様の意見を取り入れた」のか?、または「各部署のお偉いさんの意見を取り入れた」のか? とても使いづらいデザインが溢れている。
いわゆる「ガラパゴス化」などと揶揄されているが、これでは家電製品の国際競争力が弱まるのもの仕方なく思える・・・。
あるデザインを決定する過程で「お客様の意見を取り入れて」や「多数決での決定」などが民主的で公平性のある良いものとされる風潮があるが、これは適切なデザインを決定する方法としては良くない場合も多く、「おもてなし」や「お客様は神様」といった言葉をタテに「デザインに対しての責任を放棄」しているのと同じことと思える。
「問題解決のためのデザイン」を決定するのは「問題解決に真剣に思考を巡らせた者」がするべきであり、街頭でのアンケート調査や、プロジェクト外のお偉いさんの意見などは参考程度に留めるべきだろう。
従順な兵隊にクリエイティブな発想は出来ない
そして最も根本的な問題は日本の教育だろう。
「世間に迷惑をかけるな」と教えられ「意見する問題児」を悪として排除し「協調性」を重要な価値観として「事なかれ主義」を良しとする。
これは聞き分けが良く行儀の良い「兵隊」を大量生産して「従順なサラリーマン」として育成する方法としては良いのかもしれながい、問題解決のためのクリエイティブな発想には適さない。
これら「従順なサラリーマン」が優秀なエリートとして電通や大手広告代理店にまぎれていればおかしなクリエイティブが出来上がるのは不思議ではないのだ・・・。
強力なデザインの力
ではどうしたら日本はデザイン後進国から脱却できるのだろか?
当然ながら「デザイン=意匠」という間違った認識を改めるのが先ず一つ。
次に「クライアントと制作側の関係を対等に保つ」という事だが、先ずは制作側としては「クライアントにとっての本当の価値」を考え全ての事項を適切に判断する事が必要となる。
「社長の好み」や「担当者の変更」といった本来クリエイティブと関係ない部分は断固として無視する気構えが必要となる。(これは彼らがプロジェクトの事を把握していないという前提でだ)
「社長の好みは関係ないですよ」とキッパリ切り捨て、「本当の価値のあるクリエイティブを作るので任せてください」と断言しなければならない。
そして最後に「デザインの本質」が世間に浸透しなければならない。
この手法としては制作側のクライアント側、または世間一般への啓蒙というのも考えられるが、やはり文化的な背景(あるいみ軍国主義的な企業文化)から難しいだろう。
これはもはや「教育の現場」から見直す必要があると考えられる。
先ずは「従順で事なかれ主義の優等生」を良しとする教育を改めて、「意見ハッキリ主張しディベートや独自の思考によって最適な解決策を導き出す能力」、これを伸ばす教育が必要であると考えられる。
これらが実現されることで「デザイン後進国から脱却」だけでなく、かつてのように国際競争力も高まり「強い日本」に生まれ変わるのではないだろうか?
デザインの力というのはそれほど強いのだ。
このデザインの本質が広く理解される事で、日本はあらゆる面で力強くなれる気がするのだ。