「才能」って一体何だ?
「あの人は才能があふれてる」とか「才能の無駄遣いをするな」など、「才能」という言葉には「何か生まれ持って特殊な能力が備わっている」といったニュアンスが込められている雰囲気があります。
実際、そのような「特殊能力 = 才能」という意味の場合もあるでしょう。たとえば「驚異的な記憶力」だったりウサイン・ボルトやリオネル・メッシのような「圧倒的な身体能力」などでしょうか・・・。確かに「山手線の駅名を空で言える小学生」には才能を感じますし、ボルトやメッシも才能にあふれてます。
では「才能が無い」とは一体どういう事なのか?「山手線の駅名を暗記できない」という事なのか?あるいは「100メートルを9.5秒で走れない」という事なのか?1シーズンで50点取れないと才能が無いのか?
どうでしょう。「特殊能力 = 才能」としてしまうと、世の中の殆どの人が「才能が無い」事になってしまいます。これでは夢も希望も無いじゃないですね・・・。ですので「特殊能力 = 才能」という考えは間違いという事なのです。
しかしながら、「特殊能力 = 才能」という思い込みから、多くの人が「自分には才能が無い」という事にしてしまいます。こういう人たちは、(自分には)「才能が無いから挑戦(努力)したって仕方ない」(自分には)「特殊な能力もないし現状維持で結構」、「才能があるヤツは良いよなぁ〜」と愚痴り、何か「才能」を他人事の様に考え、敢えて「才能」と関わらない様に行動し、「才能」を寄せ付けない様に注意しているのです。
そして「才能が無い」人たちの決定的な勘違いは「行動よりも才能が先」という思い込みです。そこから生まれる「才能が無いから努力したって仕方ない」という考え方です。
話を元に戻して「ボルト」や「メッシ」あるいは「山手線の小学生」は、最初からその(特殊)能力を発揮していのでしょうか?それは違うでしょう。ボルトなら「走ること」が、メッシなら「サッカーが」、小学生なら「山手線」が、兎に角「好きで好きでたまらなかった」というのが先ずある筈なのです。
どうしようもなく好きだから、そのことばかり考えて(理想をイメージする)、もっと上手くなるように繰り返した(理想に向かって行動した)結果、彼らは「才能にあふれた」のだと思うのです。この「寝ても覚めても、そのことしか考えていない状態」、実はこれが「才能」の正体だと思います。
小学生・中学生の頃、宿題や授業そっちのけで夢中になったものが誰にでもある筈です。これが正しく「才能の元」なのだと思います。「教科書の落書き」だったり、「ビデオゲーム」だったり、「プラモデル」だったかもしれません。あるいは「クラスを仕切る」ことだったり「部活」なのかもしれません。
人が前を向き、朗らかに生きていく上で、この「才能の元」を大人になっても正しく持ち続けることが大事なのだと思います。「才能」を大切にしまって置かないでください。「才能」を道端に捨てないでください。「才能」を毛嫌いしないでください。
人がやがて大人になり、成すべきはこの「才能の開花」の筈です。自分に嘘をついて「才能と関係ない」事をやっていれば「才能がある」訳が無い。自分と真摯に向き合い行動すれば、誰にでも「才能」があふれていると気付くことでしょう。
結局才能とは「(ある事を)好きすぎて続けている状態」という事です。死ぬまで「才能があふれてる」状態であれば「人生大成功」です。
死に際に後悔せず「笑って安らかに死ぬ」為にも、人は「才能」と上手く付き合っていく必要があるのです。