表現者は技術を追求するべきでは無い

故岡本太郎先生が、「絵は下手ならヘタな程良い」「人にどう思われたって構わない。ヘタならヘタでもっとノビノビ描いた方が良いじゃないか」という様なことを仰っていたんです。(何かの本で読んだのかウル覚えではありますが・・・)

   

先生の言いたかった事、自分なりに解釈すると「誰とも競走するな。自分に正直であれ」という事なのかなぁ、と。

芸術は爆発するんです。表現者は爆発しているんです。

つまり・・・

音楽でも絵でも人が感動する部分は「技術」ではなく「その人が放つ独自性」だったりするので技術は最低限あれば良いのです。

「技術」っていのは表現を構成する基本要素ではあるけど、それをどこまでも磨き上げるというのは自ずと「誰かとの競走」になってしまいます。

「誰かとの競走」してる状態とは、もはや「独自性の追求をないがしろする行為」であり「本来の表現とかけ離れる」という事なのです。

たとえばギターが上手いとか下手ってのは基本的な技術、コードを抑えるとかペンタトニックでアドリブソロをとる、みたいな所までは「基本技術」として知っておいたほうが良い、義務教育みたいなモノですが、それ以降は自分が表現したい様に「やっちゃったもん勝ち」という事です。

ギターリストの歴史の中で革新的なテクニック、というか独自性を表現して名前が語られる人といのは大体決まっています。それ以外は単ならフォロワー(二番煎じ)だからです。ジャンゴ・ラインハルト、ウェス・モンゴメリー、ジミ・ヘンドリックス、エディー・ヴァン・ヘイレン・・・。

キース・リチャーズ(リチャード?)は良く「下手クソ」と揶揄されますが、「スタート・ミー・アップ」のイントロの様に「コード鳴らしただけ」でシビレるじゃないですか?

キースがコード鳴らすだけでシビレます。技術にシビレるのではなく「独自性」にシビレているのです。

専門的な話になると「キースのギターはオープンGチューニングで、とか6弦が付いてなくて」とかなるのですが、そんな事知らない時から「スゲー、カッコイイ〜」と唸っていたのも事実なのです。

キース・リチャーズは誰とも競走してないと思うんですよねぇ。

「どうやったら表現としてカッコイイか」それしか考えてないのではないか?

もしキース・リチャーズが時代に応じて流行りのギタリストを真似してたら・・・。これは相当かっこ悪いと思います。

なんかスゲー練習とかして速弾きとかライトハンド奏法とか練習してたら・・・。想像するだけで寒気がします。

「技術の追求」というのはつまり「既にある型に自分を当てはめる行為」なのです。

「既にある型」なので多くの人がそこを目指しているので自ずと「誰かと競走」することになります。

何かしらを「表現する」という人であれば「既にある型」を追うべきではなく、「独自性」を求めるべきなのです。

しかし・・・、わかります。「独自性」を追っても誰も見向きをしてくれない場合は一体どうしてくれるんだと。

だから岡本太郎先生が言ったのです。

「失敗したって良いじゃないか。失敗したらもっと失敗してやろうと思えば良い」と。

誰がどう思おうが、自分に正直に、自分に嘘をつかない、それが何れ、独自性としての顔を覗かせるのです。

   
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